国指定史跡 杣山城跡

最終更新日:2013年2月13日 ページ番号:01165

国指定史跡 杣山城跡

杣山城の概要

杣山城跡
(杣山城と城下の集落)

 杣山城は南越盆地の南端、日野川の狭い谷に南条山地の山が迫り、北陸道が通過する交通の要所に位置しています。日野川の東側に阿久和谷と宅良谷に挟まれて杣山があり、その珪岩の山容は険しく天険の地であります。杣山山頂には山城が存在し、標高492メートルの「本丸」を中心として東西に「東御殿」「西御殿」と呼ばれる曲輪が築かれています。
 山麓には城主の館があったとされ、土塁(一ノ城戸)や礎石建物跡が残る「居館跡」が存在します。
 杣山城は、山城が存在する城山と山麓城下の一部約170ヘクタールが、昭和9年と昭和54年に国史跡の指定を受けています。  

杣山城の歴史

 杣山城は、中世の荘園「杣山庄」に立地する山城です。「杣山庄」の名は鎌倉時代の古文書に見え、後鳥羽上皇の生母七条院の所領で、安貞2年(1228)8月上皇の後宮の修明門院に譲られ、その後、大覚寺統に伝えられました。この「杣山庄」は、公家領荘園として中世を通じて公家関係者が知行しました。
 山城は、鎌倉時代末期、瓜生保の父・衡が越後の三島郡瓜生村からこの地に移り築城したといわれています。以来、金ヶ崎・鉢伏・木ノ芽峠・燧などの諸城とともに越前の玄関口となりました。
 延元元年(1336)、新田義貞が恒良・尊良両親王を金ヶ崎城に入ると、瓜生一族は金ヶ崎城を援護しました。『太平記』によれば、延元2年(1337)正月11日、金ヶ崎城を救うため出兵した瓜生保は、敦賀市樫曲付近で戦死したといわれています。『得江頼員軍忠状』によれば、暦応元年(1341)6月25日夜、杣山城が落城していています。その後、足利(斯波)高経が在城しましたが、貞治6年(1367)7月、高経は杣山城で病没しました。ついで斯波氏の家老で越前国守護代を歴任した甲斐氏が拠って朝倉氏と対峙しましたが、文明6年(1474)正月日野川の合戦に敗れ落城しました。朝倉氏の時代には、その家臣・河合安芸守宗清が在城しましたが、天正元年(1573)、織田信長の北陸攻めにより廃城となりました。その後、天正2年(1574)には一向一揆が杣山に拠ったとされますが、詳細は不明です。

山城

 山城部分は、昭和45年から50年にかけて発掘調査・整備事業が行われました。現在は復元された礎石建物跡などを見ることができるようになっています。

  • 本丸  標高492メートルの山頂に位置しています。 城下の様子が一望でき、木ノ芽峠を越えて攻めてきた敵の様子を窺い知ることができるため、越前の玄関口としての要衝となりました。
  • 東御殿 南北に長い約600平方メートルの不整形な平坦地で、礎石建物跡が残っています。
  • 西御殿・殿池 「西御殿」と称する本丸の西尾根には、大小17の平坦面があります。その中には礎石が見つかった平坦面もあり、何らかの建物が建っていた可能性も考えられます。西御殿には「殿池」と呼ばれる池があり、 水源として利用されていました。
  • 姫穴 新田義貞の妻・匂当内待が一時隠れていた場所といわれています。
  • 袿掛岩 瓜生保が戦死したと聞いた夫人や女房たちが、この絶壁の岩に袿をかけて飛び降り、自害したという言い伝えが残っています。
  • 犬戻り駒返し  険阻な絶壁で、ここまで登りつめてきた犬も馬も登り切ることが出来ず、後戻りをしなければならなかったことからこの名前が付いたといわれています。

 

本丸
(本丸)
山頂からの眺め
(山頂からの眺め)
東御殿
(東御殿)
西御殿
(西御殿)
姫穴
(姫穴)

居館跡

 居館跡は、阿久和谷にある幅約100メートル、奥行き約300メートルの支谷に築かれています。谷の開口部には「一ノ城戸」と呼ばれる幅約100メートル、高さ3メートルをはかる土塁と堀が存在し、谷の内外を区画しています。谷内には「大屋敷」の字名が残り、居住空間を確保するために斜面を削平・盛土するなどして広い平坦面を造成した様子がうかがえます。この平坦面から山際までは緩やかな緩斜面が続きますが、そこにも小さな平坦面がみられます。また、土塁の外側にも「御屋敷」の字名が残っており、複郭あるいは郭外の居住空間であった可能性も考えられます。

発掘調査

 居館跡は、平成11年度から18年度にかけて発掘調査が行われました。見つかった主な遺構は下記の通りです。

  • 土塁(一ノ城戸) 中央部分を基点として「ハ」の字状に開いています。土塁の両端は後世の削平により開口しており、中央部分に道路上のくぼみがあります。また、中央部分より東側にかけては、野面積みで積んだ石積みが5段分残存しています。
  • 礎石建物 礎石の石材は山の珪石と、一部で川原石を使用しています。大きさは戦国期のものと比べると全体的に小さく、間尺は1間間隔のものが多いです。一部の礎石上面には、「井」・「十」字状の線刻が見られます。
  • 掘立柱建物 後世の削平等により上層の遺構面が存在しない下段部分で見つかったため、建物の性格や規模などは不明です。柱痕は残存していませんでした。
  • 石列 石列の内側で建物の礎石が見つかり、大量の土器が出ていることから、居住区域を区画するための石列と考えられています。
  • 井戸 経は長軸1.4メートル、短軸1.2メートルの円筒形をした石組みの井戸です。内部からは礫が大量に見つかっており、館が廃棄されたと同時に意図的に埋められたものと考えられます。
  • 土器廃棄土抗 擂り鉢状の土抗であり、中からは数点の陶磁器片を含む大量の土師質皿の破片が見つかっています。そのため、使用済みの不要な土師質皿を廃棄した土抗ではないかと考えられます。  
一ノ城戸
(一ノ城戸)
礎石建物
(礎石建物)
石列
(石列)
井戸
(井戸)
廃棄土抗
(土器廃棄土坑)

出土遺物

 発掘調査で出土した土器・陶磁器は、総数約140,000点を数えます。種別では土師質土器の出土が多く、次いで地元産の越前焼、その他瀬戸美濃焼、輸入陶磁器である青磁や白磁、少量であるが瓦質土器もみられます。
 土器・陶磁器以外では、砥石・碁石などの石製品、鉄刀・刀子・釘などの鉄製品などが出土しており、銅製品、銭貨、木製品、漆器なども数点見つかっています。
  

土師質土器
(土師質土器)
越前焼
(越前焼・大甕)
瀬戸美濃焼
(瀬戸美濃焼)
白磁
(白磁)
金属製品
(鉄製品・銅製品)

 

城下の集落

二ノ城戸
(二ノ城戸)

 城下の集落は、幅約500メートル、奥行き約4キロメートルの阿久和谷の中に築かれています。谷の入り口は「二ノ城戸」と呼ばれる土塁と堀が内外を画しており、谷の中央には「百間馬場」と通称される幹道が走っています。その両側には武家屋敷があったと言われていて、現在でも屋敷の土塁が残っている場所があります。
 二ノ城戸は山城と同じ時期に発掘調査され、城戸口に関連するものと考えられる石組溝が見つかっています。

    

登山案内

 杣山には、北側に3ヶ所、南側に1ヶ所の、合計4ヶ所の登山口があります。北側の第1登山口からのルートは林道が通っており、途中までなら車で登ることが可能です。林道の終着点には2、3台程度停められる駐車場があります。第2登山口は居館跡の発掘現場がある場所で、10台程度停められる駐車場には休憩所とトイレがあります。第3登山口は「花はす温泉そまやま」がある場所で、大型の駐車場があり、駐車場脇にトイレもあります。
 南側の登山口は、白山神社に車を停められますが、トイレはありません。

登山道紹介

  • 姫穴コース  第2登山口から居館跡のあいだを通って登るコース。姫穴のほか、殿池や西御殿も見ることができ、見所の1番多いオススメのコースとなっています。
  • 文殊堂コース  第2登山口から文殊堂を通り、西御殿に向かって登るコース。階段が多い。第1登山口から途中まで車で登った場合、このコースに合流します。
  • 犬戻り駒返しコース  第3登山口から犬戻り駒返しを通り、本丸へ向かって登るコース。ハシゴで登る絶壁があります。
  • 社谷コース 南側登山口から本丸へ向かって登るコース。急な階段が続きます。

 どのコースも1時間強で登ることの出来るハイキングコースとして親しまれており、県内だけでなく県外からも多くの人が訪れています。ぜひ一度、登ってみてください。

(注釈) 詳しくは「杣山城 登山案内」パンフレットをご覧ください。  

添付ファイルのダウンロード

杣山城 登山案内(PDF形式 1,598キロバイト)

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社会教育

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